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夜9時に寝て朝4時に起きるgotomiwaが可能なかぎりつまらないことを書くためのブログです

脳内セット

掌編小説を書くというのが、今年の「めあて」のひとつです。

書きたいと思ったのは昨年末で、「書きたい気持ち」だけで年を越してしまったのですが、明けて先日、どうにかひとつ書けました。

かなり粗い初稿だけど、人に見せるものじゃない(完成稿は要らない)ので、「書けたわ!」と自分で思えたなら、それでOK。

書けたことにホッとしています。

 

そのときの「脳内」を眺めていると、ちょっとおもしろかったから、この記事でメモ。

 

違うタイプの作品を書くとき、わたしはまず「脳内セット」を変えないとむずかしいみたいです。

短歌や俳句の場合でも、似たようなことを感じました。

どちらも真似事的に作っただけですけど。

(俳句は「お~いお茶」の公募で佳作に入れてもらったことがあります。といっても、すご~くたくさん選ばれる中のひとつにすぎません)

 

たとえば短歌って、普通に文を書いて、それを削って五七五七七に整えるのじゃないと思うんですが……違うかな?

わたしの場合は、最初から七五調で言葉が出てきます。

脳が「短歌」にセットされると、五文字枠と七文字枠ができて、そこに入るように言葉が浮かぶイメージ。

言葉を選ぶ、というか。

こうなると、日常的な思考まで七五調に染まってしまいます。

「あらそうだ、ゴミ出しの日だ、急がねば」みたいに。←標語じゃないよ

  

一時、短歌作りにハマっていたとき、そういう状態だったのでした。

(これ、短歌は生まれやすくなるけど、普通の文章を書こうとすると脳内で言葉がぎくしゃくします。だから、常にセットしておくのは無理です)

 

掌編も、それに似てた。

書いてみて、そう感じました。

脳を「掌編」にセットすると、アイデアがそれに合わせて変換されていくのが見えるんです。

初作品は実話をもとにしているのですが、「実体験」が掌編にアレンジされていく過程を見ていたら(自分の脳内を「見ている」というのも変ですが)、

「ああ、短歌のときに似ている」

と気づいたのでした。

 

これからも、脳を先に「掌編セット」にすれば、日常の何もかもが掌編小説に仕立てられるのではないでしょうか(作品としての出来は問いません)。

 

「童話」にセットすれば童話が書け、「アダルト」にセットすればそういうもの(どういうものよ?)が書けるのではないか。

何を見聞きしても作品に変えて暮らせるのではないか、と思うと、よだれが出そうです。←拭きなさい