掌編小説を書くというのが、今年の「めあて」のひとつです。
書きたいと思ったのは昨年末で、「書きたい気持ち」だけで年を越してしまったのですが、明けて先日、どうにかひとつ書けました。
かなり粗い初稿だけど、人に見せるものじゃない(完成稿は要らない)ので、「書けたわ!」と自分で思えたなら、それでOK。
書けたことにホッとしています。
そのときの「脳内」を眺めていると、ちょっとおもしろかったから、この記事でメモ。
違うタイプの作品を書くとき、わたしはまず「脳内セット」を変えないとむずかしいみたいです。
短歌や俳句の場合でも、似たようなことを感じました。
どちらも真似事的に作っただけですけど。
(俳句は「お~いお茶」の公募で佳作に入れてもらったことがあります。といっても、すご~くたくさん選ばれる中のひとつにすぎません)
たとえば短歌って、普通に文を書いて、それを削って五七五七七に整えるのじゃないと思うんですが……違うかな?
わたしの場合は、最初から七五調で言葉が出てきます。
脳が「短歌」にセットされると、五文字枠と七文字枠ができて、そこに入るように言葉が浮かぶイメージ。
言葉を選ぶ、というか。
こうなると、日常的な思考まで七五調に染まってしまいます。
「あらそうだ、ゴミ出しの日だ、急がねば」みたいに。←標語じゃないよ
一時、短歌作りにハマっていたとき、そういう状態だったのでした。
(これ、短歌は生まれやすくなるけど、普通の文章を書こうとすると脳内で言葉がぎくしゃくします。だから、常にセットしておくのは無理です)
掌編も、それに似てた。
書いてみて、そう感じました。
脳を「掌編」にセットすると、アイデアがそれに合わせて変換されていくのが見えるんです。
初作品は実話をもとにしているのですが、「実体験」が掌編にアレンジされていく過程を見ていたら(自分の脳内を「見ている」というのも変ですが)、
「ああ、短歌のときに似ている」
と気づいたのでした。
これからも、脳を先に「掌編セット」にすれば、日常の何もかもが掌編小説に仕立てられるのではないでしょうか(作品としての出来は問いません)。
「童話」にセットすれば童話が書け、「アダルト」にセットすればそういうもの(どういうものよ?)が書けるのではないか。
何を見聞きしても作品に変えて暮らせるのではないか、と思うと、よだれが出そうです。←拭きなさい