これはわたしの性格(性質)由来の話なので、「人は」「作家は」「物書きは」という主語ではないことを先にお断りしておきます。
最近ちょっとした出会いがあって、「あ。」と気づいたのです。
わたし、自分の作品を(または自分が書いているジャンルやレーベルを)誉めてくれた人や「好き」といってくれた人のことは忘れないんだなって。
何年たっても(十年以上たっていても)「●●さんが誉めてくれた」「この人はわたしの作品を好きといってくれた」みたいなことが……そのときの「喜び」が思い出せるのです。
その人のことを好きになったりもするくらい(どんな人かよく知らないのに)。
翻って、まったく逆の反応をくれた人のことも忘れないなぁ。
わたし自身(や作品)が、直接批判されたのではない場合も。
たとえば、自分が書いている○○というジャンルについて、どこかで「○○なんて、読んでも楽しくない」みたいなことを論じているのを見たら、
「批評のふりして『個人の感想』を書いたらあかんやろ」
って思うし、その人の肩書きが「評論家」なら、「評論家としてどうなの?」と思うし、その人の名を忘れない……
「根に持つヤツだ」といわれてもしかたないくらい。
どこかで会ってもニコッと笑ってスルーしようって思う……そんな感じ。
わたしって、こんなふうなんだ。←赤裸々告白(^^ゞ
細胞レベルで、感情が刻まれるのかもしれません。
・・・
一方、講師としてはどうなんだろ。
「gotomiwaはやたら誉める」みたいに言われることが(よく)あるんだけど。
「ガンガン貶したら、根に持たれる。ニコッとスルーされる」って怯えて、ゴマを擦っているわけではないのです。
わたし自身に、「批判されてこそがんばれる」というナニクソ的な回路がないんでしょうね。
「この味がいいね」っていわれたらサラダ記念日に認定しちゃうように、誉められたほうが力が湧くし、誉められた部分が「伸びる」と感じているから。
っていうか、自分がそうだから、だな。
「不得意」を克服するより「得意」を伸ばせ、みたいにいうじゃない?
誉められた部分をさらに磨いていけば、「誉められなかった部分」も一緒に……「つられて」よくなっていくんじゃないかな、とも思ってる。
もちろん、ただ誉めてるばかりではありません。
マイナスの要素についても、話すよ。
でも、「読んでも楽しくない」みたいなことはいわない。いう気がないです。そんなの、手抜きだよ。
「この味がよくないね」というときは「理由」も添えている……つもり(伝わってなかったら、ごめんなさい)。
「これはわたしの感想に過ぎないけど」と前置きして、個人的な感覚を話すこともあります。
とにかく。
相手が誰であれ(講師であれ合評仲間であれ)「ここがいいね」という指摘はエネルギーの源になると思うんだけどな。
ミトコンドリアが跳ねまわる感じ、しませんか?