これまでも人に話しているので、このブログにも書いているかもしれない話、です。
デビューしたころ、「自身で著作の営業をしないとダメよ」といわれて、地元の新聞社に本を送ったり、コミュニティ紙に持ち込んで取材してもらったりしていました。
新刊を手ににっこりの作者、みたいな写真が載ったり。
そのころは「そういうものだ」と思っていたけど、ある一本の電話がわたしを変えた……?
もちろん紙面には細かい住所は載せていなかったけど、当時は町名までわかれば「電話帳」で調べることができたんです。
わたしの番号は載せていませんでしたが、夫の両親世帯の番号は載っていましたから、わたしの名を出せば取り次いでくれちゃいます。
受話器(ほぼ死語?)の向こうから、
「同じ町に住んでいます。記事を見ました。お宅に伺ってもいいですか?」
といわれて、会うのに喫茶店を指定したのは、「家に来る」というのはすなわち「夫の両親の客になる」ということだからです(わたしは未だに夫実家の居候)。
でも、会うまでは「わたしも児童文学を書きたいんです」みたいな相談かな、と予想していました。
そのくらいしか思いつかなかったのです。
喫茶店で話を始めてからも「何かの取材かな?」程度の内容だったのですが、しばらくすると本題がわかりました。
「記事の笑顔もとても素敵でしたし、今も充実しているようですね。もっと幸せになれる道場があるんですが、これから一緒に行きませんか? 師(?)をご紹介したいんです」
そう来たか、と思い、もちろんお断りしたのだけど、そのときとっさに口から出たのは、
「作家は、あまり幸せになっちゃいけないんです。幸せじゃ、作品は書けないんですよ」
という「お断り理由」でした。
以来、新刊が出ても、地元で取材されても、住んでいる場所が知られないようにしてもらうようになりましたが……。
あれ以来、はっきりと、
「わたしは、自身に足りない(憧れる)ものや解決しない問いがあるから書いている(書ける)んだな」
と、自覚しました。
もちろん、どん底的に不幸なら「書く気力」も湧かないでしょうけど。
幸せは、そこそこでいいや。
「もっと幸せ」になんかなったら、書かなくてよくなっちゃうよ。
どんな内容でも「断る」のって苦手だから、これもあまりいい思い出じゃないけど、とっさに、あんなことが言えたわたし、GJ!
その人には二度と会っていません。
それでもときおり、何かのきっかけで、未だに蘇るのは「大事なエピソード」だからだと思うし、その意味では……年月がたった今では、感謝もしています(皮肉じゃなく、ね)。