先日の出張時、電車の窓からボーッと外を見ていたのです。
いいですか、「ボーッと」ですよ、ココ重要、伏線(?)です。
街なかを走る電車……窓からは道路や家々、工場などが見えます。
すぐ近くにはときおり踏切も。
眺めながら、わたしは思いました。
踏切、どれも閉まってるなぁ。
わたし(この電車)が通るとき、どの踏切も遮断機が下りているのです。
どんな偶然なんやろ、不思議……と。
気づいたのは、けっこう後でした。
時間は計ってなかったけど……もしかして、駅に降りた後だったかも。
(長い)時間差で、自分にツッコみました。
「開いてるわけないやん!」
わたし(の乗った電車)が通過してるんだから、開いてたらたいへんです。
そんなの、わかりきっている……。
なのに、「どれも閉まってる」ことに気づいたときは、「次の踏切も閉まっているであろう」なんて予言ができちゃうかも、みたいにワクワクしたんです。
いや、ひとりの物書きとして、この「いつも閉まってるなぁ」と思ってしまう感覚は大事なんだぞ、とは思っています。
あたりまえのことをあたりまえとしか見られないなら、童話を書くのには向かないんじゃないかって、思ってはいるのです。
人の体の一部だって機械のように「こわれる」んだなぁと気づくこと。
曲がったきゅうりが「きゅうり」ではなく「文字」に見えること。
そういう「物の捉え方」ができたおかげで、今、仕事をさせていただいてるのですから。
でもね、それは「若さゆえ」なのかも。
老女の今、「あたりまえ以外のこと」を考えてしまうとき、
「これは、もしや、わたしの脳が……?」
と案じてしまって……。
だから、
「違う違う、ただ、ボーッとしてただけ! 見えたままをつぶやいただけ!」
そう主張したいんですよ。
はー。
実際のところ、どうなんだろ。
「あったりまえじゃ~ん」と笑って自分にツッコむことが、しづらかった……これはそういう(ドキドキの)記事なのでした。