昨日の今日の話。
自戒を込めて書いておきます。
夕食中に、不意に自分の言葉が浮かんできたのです。
午後遅くに、講評に書いた言葉です。
そこだけ太字になったみたいに、文面が浮かんできたの。
浮かんだ瞬間は、なぜなのかわからなかった……いえ、その瞬間は「今日のわたし、ずばり、見抜けたな」みたいな気持ちだったかも。
だけど、すぐに違和感に気づきました。
「あなた、こういう状態でこのシーンを書いたでしょ」(読めばわかるのよ、ふふん)
そんな気持ちで書いたせいか、講評の中のその一文が、すごくキツい(当社比)。
明らかに、そこだけトーンが違うというか。
斬った、という感じがある。
食後すぐパソコンに戻って、その部分を書き換えました。
「読めばわかった」こと自体を「誤解だ」とは思っていません(そういうミスではない)。
確かに、そのシーンには「粗」がある。
そうならないために解決策を提案するのが、わたしの仕事。
だけど、「言い方」ってもんがあるでしょう? >自分
たとえ、「読めばわかった」としても……それが正解だとしても……真実はひとつだとしても……その伝え方を間違えたら、相手は萎えるよね。
「あー、なんかもー、創作がいやになっちゃった」
って、なりかねない(わたしなら、なる)。
それ、わたしが願ってること(童話を書いてみましょうよ、いいことあるかもよ)とは正反対の効果だよ。
「あ、そうすればいいのか、ちょっと直してみよう」とか「次の作品ではそうしよう」とか、思ってもらいたい……。
そんな講評じゃないと、あかんやろ。>自分
できているかどうかは脇に置いて、それがわたしの講評スタイルなの。
その日3件目の講評で疲れていた、なんてのは理由にならないわけで。
まだまだ発展途上だということがよくわかったため、ここに書いておく次第です。
ところで、わたしは上記のようなことを願っていますが、心にもないお世辞とかは性格的に書けません。
基本、無愛想。
「ゴマをする」とか「おだててノセる」とか、クレージーキャッツの歌みたいなこと(古い?)をする技術がない。
だから、講評で「この雰囲気、いいね」とか「直すといい作品に仕上がるよ」とか「これ、応募して」とかいうときは、全部本音です。
余談。
四半世紀前、娘が幼稚園児のとき、遊びに来たお友だちが、
「どうして、おうちにコナンがあるの?」
と驚いていました。
そのニュアンスから察するに、少年漫画(コミックス)を幼稚園児(娘)が買って読むとも、おばさん(わたし)が買って読むとも思えなかったらしいです。
四半世紀後も「ハイキュー!!」をコンプリートしたわよ、このおば(あ)さんは。