ブログでもtwitterでも、いや、リアルで初対面の人にまでも、最近は、
「童話(児童文学)創作の添削講師をしています」
と、自身について説明しています。
以前なら「作家です、講師もしています」という感じだったのに。
実際、コロナ禍になって以来(※1)、自身の作品はほとんど書いていないし。
(ゆえに出版もしていない……今は「ボツ」になってるんじゃなく、書いていないんです。かつてはボツも多かったんですけども)
(※1)たまたまかもしれないけど、この数年、添削の受講生さんが増えている、というか熱心さが増しているというか、月あたり、以前の倍くらいの件数(枚数)の講評を書くのが常態化しました。
「えー。書かないんじゃなくて、書けなくなったんじゃないのー?」
と、意地悪な人には言われちゃうかもしれないし。
「書く機会がないなら、まぁ、書かなくてもいいかなー」
と、わたし自身、(書けないのかもという)危機感がなかったし。
そうこうしているうちに「創作脳」は萎縮していくのかもね、くらいに思っていました。
(作家としては、マジで危機感ないですね、自分でもびっくり)
でも、お約束している創作仕事はありまして。
その件で担当者さんとやり取りをしたら、いきなり、パーーッと見えて(それをメモして)草稿ができてしまった。
よく「プロットは書くべきか」みたいな話題が出るけど、わたしの場合、普段は「書かない」のです。
短編なら全部脳内に見えるから……歴史年表みたいに。
(以前は、50枚の作品までなら見えたなー。今はわかりません)
それを文字で書き起こすのが「面倒!」という意味で、プロットが書けないし、書かないのです。
仕事では、それを編集者さんにプレゼンしないといけないので、プロットは書けたほうがいい……書けないと仕事がしづらいんですけども。
(「おれの目を見ろ」的に、脳内をのぞいてくださいとは言えないしね)
わたしが「プロットが書けない」というと、行き当たりばったりで書いているのか? と誤解されることもありますが……まぁ、それに近い場合もありますが(※2)たいていは脳内にあります。見せられなくて、残念。←??
(※2)4巻組の「ボーイズ・イン・ブラック」のラストが「見えた」のは2巻を書いているときであった……
話がどんどこ逸れていますが。
今でも、刺激を受ければ創作脳がパーーッとまわりだすのだとわかって。
脳内ではじまった「初めて見るお話」が楽しくて。
わたし、童話を書「け」なくなったわけじゃないな、今は書「か」ないだけなんだなと……なんとなくホッとした、という記事です、これは。