(大げさなタイトルをつけてみた)
「作業興奮」という言葉が好きで、頼ってもいるのだけれど、実は正しい定義や用法は知りません。
ここでは「はじめればノッてくる」という意味だと思ってください。
この数日、定期的に届く公募スクールの課題原稿がありません。
定期なので、年に数回「お休み」になる週があるんです。
今が、それ。
今年、すでにそういう週はあったけれど、ほかの講座や教室等にもかかわっているので、
「添削すべき作品が、ゼロ」
という日が、ほとんどなかった気がします(一日二日はあったのかも? でも、思い出せない程度しかなかったと思う)。←記憶力がヤバいだけでは?
手元に10作以上、みたいなことが普通に続いていたのでした。
この数日は、明確に、一作もない状況です。
わたし、「最近、自分の作品が進まないのは、誰かの作品が常に頭の中に入っているからだわ」と思っていました。
人にも、よく、そう言っていました。
だとすると、「今」なら、さくさく創作できるはずじゃないですか。
なのに、なかなかそうはいかないのですよね。
添削講評の仕事がないだけで、「ひとり事務局」的な仕事系の雑用や、民生委員としての「任務」はあるので、「ただただ書いていられる幸せな休日」というわけではなくて……。
それでも「誰かの作品」はないのだから、もっと書く時間はあるはずなのにね。
「今日は、書き進めた気がするぞ\(^o^)/」
って思えたのは、この数日のうちの、たった一日です。
だめじゃん。
もっと書けたはずでは? という反省の心でいっぱいになっています。
ただ、その「書けた日」に、
「作業興奮は、有効である!」
って、実感できたのも確かです。
依頼原稿も趣味の作品も、とりあえずファイルを開けば……一語でも書き直せば……一文でも新たに書けば……ちゃんとその世界に入っていけるんだってことは、わかりました。
あまり書かなくなった今でも、ちゃんとそうなるってことが。
週末以降、また元の生活(添削講評する日々)に戻ると思うのだけど、「誰かの作品」を言い訳にせず、「自分の作品ファイル」をちゃんと目の前に開いて「作業興奮」に期待しよう、そう思っています。
特に、趣味の作品はね。
がんばらないと……予定しているところまで書き終える前に寿命が来ちゃいそうなんです。
そんな「負の展望」があるんです……それはいやだよぅ。
わたし自身(と、ごく少数の読者さん)のために、書かないと。
改めて、そう思っています。