書かねばならない講評(複数)があり、この何日か、唸っています。
まず、脳内で練るのに数日(いや、数週?)。
やっと文章化したけれど、まだまだ修正……とか、どれもそんな感じ。
普段から「添削講評好き好き」と公言するgotomiwaです。
拝読して即、脳内で講評が書けちゃっていることも、けっこうあるのです。
(入力して、確認して、推敲して、校正して……のほうに、圧倒的に時間を取られます)
でも、問題が複雑……というか「立体的」な場合、どこからどう話そうか、迷ったりする日々もある……。
こんなとき、「作品の創作みたいだな」って思います※
作品を書くときも、「冒頭はどう書こう?」とか考えるじゃないですか。
このシーンはどこに置くかとか、このセリフは活かしたいとか……とにかく、さまざまなことを選択した結果が原稿になるわけです。
講評の冒頭(?)は挨拶的なものだから別として、講評本編も、まず結論から行くか感想から行くか……とか、考えます。
その後も同じ。
選択は続きます。
改稿例はどの程度書くか……とかね。
改稿例を考えているうちに脳内で全編改稿できてしまうことはよくあるし(人さまの作品なのに!)「あ、いいお話になるじゃん」と思うし……リアル教室では、ついつい(勢いで)「素材は全部揃ってるからちゃんとできあがるよー」なんていっちゃうけど……。
作者さんは「gotomiwaの案」なんか聞きたいわけじゃないだろうしなぁ。
いえ、ある程度は「例」も必要だと思うのだけども、「どこまで話すか」はいつも迷います。
「例」とわかってくれる方はいいけれど、まじめな方は「このとおりに直さねば」と思ってしまうかもしれないし。
(違うのよー、先生の赤ペンのとおりに書く人は、伸びないよー)
ブログのタイトルは「講評と作品(は似ている)」にしたけど、「講評は(わたしにとって)作品(でもある)」のほうが、わたし自身の感覚に近いのかもしれません。
常に「これでいいのだろうか?」と案じながら推敲する……というあたりも、同じ。
いやあ、たいへんだなぁ!
それが楽しい。←ヘンタイ
今日も、そんな日です。
※ 速攻で講評がまとまるときも、やっぱり「作品みたい」かな。作品でも、思いついた途端、パーッと「全部見えました」みたいなことがあるから。