わが市の図書館の本って、背表紙の下のほう、作者名が半ば隠れる位置に記号のシールが貼ってあるんですよね。
だから、棚の前に立って背表紙を見ながら作者名で本を探す際は、ちょっとめんどくさい。
頭に「後」の字が見えたら多くの場合「後藤」かもしれないけど、「山」が見えたら、山口か、山川か、山田か、山本か、山内か…パッとわからないじゃないですか。
それはそれとして。
「書く仕事」が終わったら「読む仕事」ですので、今日は、
「わたしが書く意味」(あなたが書く意味、と言い換えてもいい)
について、考えています。
児童書をいっぱい読んできた(読んでいる)人が「わたしも書きたい」となったとき、
「自分が読んできたような作品」
を書きがちなんじゃないかな?(あくまでも傾向の話です)
でも、よく考えて。
あなたが読んだことあるってことは、むかしからこの世にある、すでに書かれているものってことなのよ。
(もしかすると重版3ケタ刷の大ロングセラーなのよ。世代を超えて読まれているのよ。老いも若きも「それ、知ってる」ってなるのよ)
世代を超えた大事なテーマだから自分も書きたい、という気持ちはわかります。
自分がなじんでいるお話(パターン)だから、「わたしもこういうのを書いてみたい」という気持ちもわかります。
だけど、それをなぞって終わりになったら、もったいなくないですか?
数行前に、わかりますって書きました。
たとえば「なじんでいて、好きなものだから、同じように書いてしまう」という感じ、マジでわかるんです。
わたしの初応募の小説も、「クラッシャージョウ」(高千穂遙)みたいなものが書きたい! から始まってるもんね。
それを「コバルト」に応募した…。
最終選考まで行ったのはある意味「新鮮だったから」かもですが…小説として未熟すぎた…。
読み返したくないから(だって吐きそう…)未確認だけど、もろに似てる部分もあったかもしれない…きっとあっただろうな…。
それでも。
「こういうテイストのを書きたい」
と同時に、
「わたしなら、こう書く」
っていう思いもあったのです(成功してたかどうかは脇に置く)→よいしょ
だって、わたしが書くんだもん。
あなたなら、どう書く?
わたしたちの本は、タイトルの下に「作者名」が添えられます。
ちゃんと、タイトルとワンセットです(記号シールで隠れているとしても)。
単なる目印、単なる慣習という面もあるかもしれないけど、
「この題材、このテーマをわたしが書くとこうなるのよ」
ということでもあるんじゃない?
「わたしが書く意味」を今一度、考えてみようじゃありませんか。
(なんでいきなり、アジっぽいのか)