「こうし」と入力するとまず「講師」が出る程度には、この言葉を書いているのですね。
(公使や公私や格子や、ドナドナな子牛ではなく)
今日の記事は自分用のメモ。
最近出会った児童文学作品にハッと驚いた……というか、目が醒めた気持ちなので。
その作品、文章が美しいのです。
いえ、「美」と呼ぶのは正確ではないかも。
構文はオーソドックス、でもボキャブラリーの豊かさが素晴らしいのです。
プロットだけ見たら……それどころかエピソードのひとつひとつは、そんなにめずらしくもない(下手に書くと退屈かもしれない)ものなのですが(失敬)それを語る言葉が気持ちいいのです。
おかしなたとえだけど、普通の文章がドラムとベースの伴奏しかないバンドだとしたら、その作品はバックがオーケストラなんです。
音のすきまがないし、重なった音(和音)もいい…。
アマチュアの方の作品を講評するとき、ついつい、「テーマは」とか「構成は」とか「視点は」みたいになる……確かにそれができていない場合は、そのことをいわねばなりません。
合評会でアマチュアの方同士が指摘しあうときも、目の付け所はそのあたりが多かったりします。
でも、それらの指摘が要らないくらいに書き慣れたら、文章が「ドラムとベースだけ」(まちがってないけど味気ない)になっていないか……そこにも「目を付ける」必要があるな、と思った次第。
これは、あくまでもわたし自身の「講評スキル」(とは?)の問題ですけれども、書き手さんも「意味はわかるけどスカスカの文章」になっていないか、考えてみてほしいな。
もちろん、わたしも自分の作品を省みなくては……。