名文家でもないくせに、文章(そこに使う言葉)に対する「こだわり」は強いです。
たとえば、自身の一人称は必ず「わたし」だし、通常は「言う」と書くのはいや(ひらがなにしたい)、「(例)輝きはじめる」を「輝き始める」と書くのはいや、「とき」「こと」などの形式名詞は知っているかぎりひらがなで書かないと自分を許せない……などなど。
文法的に推奨されることも、そうでもないこともひっくるめて「このように表記しないといや」という気持ちが強いのです。
だから、文章の修正(えぇ、推敲ではなく修正です)に馬鹿みたいに時間がかかり……そのことに苛立ったりしてね。
(もちろん、文法的なこと以外、人の書いた原稿を自分基準=自分の趣味で添削することはありませぬ)
ところが、ここ数年(フリックが下手すぎて)音声入力でlineするようになり、少し、そのこだわり(っていうより「こわばり」?)が緩んできた……
だって、「素早さが命」と思って音声入力しているのに、いちいち「私」を「わたし」に打ち直すことこそ、馬鹿みたいだものね。
(音声入力め~~なぜ迷いもなく「私」に変換するのじゃ~~とは思ってるけど)
そうそう、「~」という記号を小説内で使わない、というこだわりもある。
人が使っていても何とも思わないのに、自分が使うのは死ぬほどイヤ。
これまで出版した本の中で一冊だけ、すごい勇気で(この記号しかありえないと諦めて?)使ったことがある……。
今でも当時の苦悩が思い出せるほど。
そのくらい、こだわりだらけなの。
まさに辞書的な意味どおり、「執着」ですよね ┐(´д`)┌ヤレヤレ
lineは身内としかしないので、緩めやすかったのかな、とも思うのだけど。
そもそも、文章の内容が相手に伝わればいいんだし、上記のようなわたしのこだわりなんて、受け取る相手は気にしていない(気づいてもいない)んだもんね。
そう、こんな話をしても、人から見れば「何それ、くっだらな~い」だよね、という自覚もあるのですよ。
今、講評やメールにも、この考え方を広げていけるんじゃないかと思っています。
もしかすると、このブログにも。
一か所くらい「私」が混ざっていても、自分に目くじら立てないで。
それより、「内容が伝わる文章」を早く、楽しく書く(リリースする)ほうがいい。
講評に関しては、その内容にはプライドを持ち、吟味しつづけるけど、「吟味し続ける」と変換してしまったときも「いや~ん」ってならないようにする。
メールやSNSのコメント等は、TPO。
相手や内容によっては「ざっくり修正」でもいいことにする。
小説の表現だけは、これからもこだわるつもり。
(たとえば、「おれ」が一人称の男子が「オレ」とか「俺」とかいうのは、キャラ崩壊だと思うから許せないもの)
それ以外の文章はできるだけ目をつむって、「早さ」を優先しようと思います。
こう書きながらも、「目をつむる」には意志の力が要るのだろうなぁと感じているんですけどね。