いくら自分自身のことでも、「ビョーキ」という揶揄表現をするのはいいことじゃないかもしれません。
しつこいこだわりとか、何か、別の言葉のほうが合うかも……。
と思いつつ、続けます。
これまでにも記事にしているかと思いますが、わたしは作品講評を仕上げる際、
「Wordで読み上げ(耳で確認)」
「(印字しての)音読」
「モニター上で、表示スタイルを変えての黙読」
これら3つをセットにして「点検」しないといられないのです。
(点検、と書いているのは内容的な推敲はその前の段階ですませているからです。点検するというのは、本でいえば「校正」に近い作業です)
どうしても、この3つをすませないと送り出せません。
重症なときは「一度」ですまなかったりもします……が、それはあまりに「ビョーキすぎる」と思い、特に読み上げと音読は、
「一度しかしない」(一度すればOKなんだからねっ!)
と、最近は決めています。
自分に命じている(禁止している)といってもいいくらい、厳しく。
でないと、気になって気になって、送り出すまでに何日かかるかわからないからです。
(黙読は別。送信直前にも確認するので結果的に複数回になります)
耳と口と目、その3か所を使っても判断するのは「ひとつの脳」なので、点検すれば講評が完璧になる、とは言えません。
これだけ点検しても、誤変換や字の抜けがあったりが後で見つかったりしますし。
ひどいときは、受講生さんのお名前をずっとまちがっていた、なんてこともあります。
(渡邊を渡辺に、髙木を高木に、みたいな変換的ミスではなく、「木田」さんを「大田」さんに空目していた=最初に見た段階で「目が」ミスっていた、なんてことも)
「だからこそ、もう一度確かめたい」という気持ちと「何度やってもミスるときはミスる(から、ほどほどにしとけ)」という気持ちが、いつもせめぎあってる……。
家事も人づきあいも、このブログを書くのも「いい加減」なわたしが、なぜ、講評にだけ神経質で、我ながらビョー的じゃんorz、と思う状態なのか……。
わからないまま、今日も戦っています。
(「読み上げ」はヘッドフォンをつけて、静かな環境でしたほうがいいので、早朝に行なうことが増えました)
お金持ちなら「誤変換」や「抜け字」の発見のためだけに人を雇いたいほどなのですが……書いた自分にしか気づけないミスや「変更したい点(推敲が足りなかった点)」も見つかるので、もし人を雇っても、自分で上記3点、やっちゃうんだろうなぁ。
3点、どれも「一回やったらOKやねんで」と、今日も自分に言い聞かせます!