急逝された先生の代役として依頼された童話教室の全日程が無事に(たぶん?)終わりました。
全日程……なんて書いているけど、提出したカリキュラムは「仮」のものというか……変更することになるだろうとは思っていましたが、予想どおり、まったく守らず(わたしの頭から抜けており)、系統立った講義的なものはできずに終わりました。
えへっ。←笑ってごまかす。
何かお伝えすることはできたのだろうかと自省しはじめておりますが、わたし的には大いに刺激を受ける、学びになる教室でした。
「先生」の立場でそんなこと言ってるのか、と責められそう……すみません。
開始前は「10回!」なんてできるのかな、と不安でした。
でも、1回ずつ終えていけば、ちゃんと10回になるのですね。
これは、今年初めて「校長先生役」を体験した児文協の児童文学学校も同様。
半年(6回)の連続講座も、はじまって、毎月続けていけば、ちゃんと終わりました。
気をつけたのは、半分まで来たときに気が緩みそうになったこと。
「あ、緩んだな、安心しかけてるな」と感じたので、その時点で自分に「めっ」した記憶があります。
「わたしのことだから、安心するときっと何かミスる」とわかっているからです。
時期が近いせいか、もともと4回目と5回目のあいだ(8月)に夏休みが作ってあったせいか、童話教室のほうは「半分まで来たぞ~」という「気の緩み」はなかったのですが、9回目くらいには「完走できるだろうか」という緊張がすごく……。
いえ、すごかったらしい。
10回目前には、胃が動くのをやめていたもんね。
今月はもうひとつ、リアルgotomiwa先生の機会をいただいています。
童話教室は一段落でも、「先生」としては気を抜かず、緩めず、準備いたします。
それにしても、自分で自分のことを「先生」とか言っちゃって、おはずかしい。
(作家としての敬称に「先生」をつけられたときは、抵抗したり、見ないふりをしたりですし、もちろん自称もしないのですが)
添削講評する「先生」の立場のときは、けっこう受け入れちゃっているというか、もちろんその自覚を持つべきとも思っているのですが……なんか、一種の愛称のように使っているし、受け止めている(そう呼ばれても返事をしちゃってる)気がします。
若き日の友人に「まぐろちゃん」と(当時のあだ名のまま)呼ばれるのに近い感覚なのです。
そうか、あだ名か、なるほど! と納得なう(^o^)/