昨日の記事を書いたら、脱線したくなったので。
この話、これまでもしているんですけど(あちこちで)。
「わが子にお話を語っていたことがきっかけで童話作家を目指すようになった」
という人は、けっこういるんじゃないかと思います。
数えたことはないけども。
わたしは、わが子に語ったことがありません。
普通に絵本を読んだりはしていました。
長編を毎晩少しずつ朗読したこともありました(「大草原の小さな家」とかね)。
でも、オリジナルストーリーは語っていません。
正確にいえば、上の子に一度語ってみて、すごく喜ばれたからやめてしまったのです。
喜んでいることをやめるって、考えてみたらひどい母かも(…すまぬ)。
ただ、そのとき、
「ああ、子どもって母親が語ってくれるなら何でも喜ぶんだ」
と、思っちゃったのです。
何でも。
つまり、クオリティに関係なくってことです。
そのときどんな話を語ったのかは記憶にありませんが、なにしろその場の思いつきですから、たどたどしさと「えーかげんさ」でいえば、昨日の記事の「音声入力」に近かったと思います。
「人に聞かせるようなもんじゃない」ってこと。
(たとえ相手が幼い子でも……いやいや、幼い子こそ「クライアントさん」じゃないか)
「この程度のものでOK、と思いこむようになったらダメだ、わたしはきっと甘える」
と、たった一度で「わかった」のです。
こういう危機回避能力(?)は高いんです。
それはひとつの象徴的なできごとですが、ほかの場面においても、わたしは「書き手」としての自分と、娘たちの「母」である自分を明確に分離していたと思う…。
娘から聞いたエピソード(彼女の母ゆえに聞けたこと)をいくつか作品化しているけど、これは「母」として聞き、「書き手」の自分にパスした感じかな。
誰から、どんな立場で聞いたことでも、「ピピッ」と来れば作品に使いますから。
わたし自身は、身内に興味を持たれたり励まされたり、とにかく「口を出される」と萎縮するタイプ。
「もっとがんばるべき」と叱られたり、「下手っぴー」とバカにされたりするわけじゃなく、期待されても緊張しちゃう(書けなくなっちゃう)と思う…。
そういう性分なんだと思う…。
(映画「アリー/スター誕生」を観たときにも思ったけど、恋愛と仕事のパートナーを同一人物にすることは、わたしにはムリ、絶対!)
相手が友人や読者さんや受講生さんなら、励ましも叱責も(うれしく・ありがたく)受け取ることができるのに。
なぜかな、とにかく家族・親族だとダメなんだ。
適度に放置・無関心というのがベター。
結果的に身内とはそういう関係を作れてきたので、心地いいし、とても助かっているのです。
別の話なので別の機会に譲りますが、わたしがよく、
「児童文学の同人(サークル)活動をやっていたら、わたしはきっとデビューできていなかった」
なんていうのも、そういう場で「自分がどうなるか」がわかるからです。
最初に書いたように、「わが子に語る」ことから作家になった人たちはいます。
サークルメンバーに合評されて、そこで揉まれることで力をつけていく人たちもいます。
どの方法が良いかは、ホント、「人による」なのです。
ざっくりまとめちゃうと「自分の性分に合う進み方を見つけるのが大事」ってことだと思います。
おお、いつになくまじめっぽい(「ぽい」だけの)記事になりました。
今日で、ブログ開設から丸1年です。
おつきあいくださるみなさん、ありがとうございます!