考えてみたら、こんな年になっても「何だ?」といっているのははずかしいことなのかも。
子どものころ、「あきっぽい」「長続きしない」とよく言われていた(自分でもそう思っていた)(実際そうだった)せいか、未だに、
「続くかどうか」
「毎日できるか」
という点に、非常にこだわってしまいます。
先日この記事を書きましたが、
そのころ、29日間、連続で冒険していました。
仕事の都合で「今日は無理かも」という日も、15分くらいがんばる、とか。
でも、その後、いきなりカラダの一部が不調になり(冒険のし過ぎ?)痛くてまともに動けない日があって。
「冒険どころじゃない」(日常生活も30%みたいな)感じで。
「連続」が止まってしまうことを嘆くゆとりもなかったのです。
結局3日間くらい休んだかな。
それから、そろりそろりと冒険に戻って、ほぼ、以前どおりに戻りまして……レベルも111を越えました。
リングフィットのありがたいところは「連続」という言葉を使わないこと。
中断したから、気づいたんですけどね。
休んだ後に起動したら、当然のように(?)、
「今日で30日ですね」
みたいに言ってくれて、気が楽になりました。
そのとき、改めて自分に「中断しても再開できることを習慣と呼ぶのだよ」と言って聞かせたのです。
頭ではわかってる……。
たとえば、風邪引いて高熱が出て入浴できなかったとき、
「お風呂に入る習慣を失ってしまった」
とは、いわないものね。
「今日はお風呂に入れなかったなー」くらいのことは考えるとしても。
なのに、なぜか中断が怖かったりして。
それは、「休んだら戻れないかも」という、「あきっぽい」といわれた子に特有の不安なのかもしれません。
わたしもすっかりオバタリアン(死語か!?)なので、中断しても「しれっと」再開することができるようになった、ということなのかな。
気がつけば、年単位で「毎日続けていること」もあるし……このブログだって連続1000日をとっくに超えているし……。
もう、あきっぽい子ではないよね。
あ、とっくに「子」ではないわ!