gotomiwa先生は「添削講評が好き好き」と公言しています。
それ以上でも以下でもないというか、「よい先生」というわけではありません。
このあたりは正直に自己申告します。
もともと「講師3級」とか「講師免許皆伝」とか、客観的な(?)レベル表示があるわけじゃないし、そもそも講師になるのに「資格試験」があるわけでもなくて……。
じゃあ、わたし自身が拠り所とする、その「所」って何だろう? って思うと「好き」ってことしかないのですよね。
「だから、続けている」ってことしか。
ほかのこと(特に家事と人間関係?)に関しては「どうやってサボろうか」「どうしたら手が抜けるか」みたいに考えること多々なのに、添削講評に関してはそれがないというか……※
(※ 書き手さんの経験値などによって「この話をするのはまだ早い、きっと理解できない」という判断で「講評から抜く」的なことはあります。そういうのは、外からは「手抜き」に見えるかもしれない)
そんなgotomiwaは、回答がむずかしい質問をいただくことがあるのです。
今、その具体的な質問文たちが頭の中に転がっているのですが、それを書くのはやめておきます。
(ここをごらんくださる受講生さんも多いので。「え、それは質問してはいけなかったの?」と思われても困るので)←いいんですよー。質疑応答、大好き。
回答がむずかしい質問……すべてに「わたしなりの」回答をお返ししてるわけですが、そういうタイプの質問に対する究極の回答って、これじゃないかと思ってる。
「考えるな、感じろ」
「燃えよドラゴン」は、実は観たことありません。
ブルース・リーの映画はどれも未経験だな、そういえば(脱線)。
(さらに脱線するけど、香港映画は「ミスターBOO!」のシリーズ、ファンレターを出すほどハマってました、10代のころ)
児童文学(童話)は文学だから……「2×2は、4ですよ」「大さじ1杯の砂糖は35kcalで計算します」のようには説明しがたいこともある……と、わたしは「感じている」のです。
児童文学を志す人は、その「まじめさ」ゆえに「決まり」を欲するのかも。
「これは決まりだ」と思いこんで縛られてしまっている……という事案にも、よく出会います。
そんなの初めて聞いた! と驚く「決まり」も…。
(gotomiwa、童話を書きだして30年です。初めての小説公募からは、すでに40年)
これは講師サイドにも原因があるのかも、と思ったり。
必要以上の縛りを教えてしまっているというか……たとえば俳句で、「五七五です」というだけで「字余り」は教えないみたいな……?
考えるべきことはある(いっぱい)と思います、創作をするうえで。
「考えるな」というのは「何も考えるな」って意味ではないと思うよ(映画の中ではどうだったんだろう?)。
でも、「あなたの感覚を信じて!」と言いたくなることも、たびたびあるのです。
だって、文学だもの。
芸術だもの。
回答はあなたの中から出てくるかもしれない……すでに「ある」のかも……。
講師として「手を抜きたい」からいっているわけじゃなく、ね。
あと一段深く、自分を信じていいよ、大丈夫!