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夜9時に寝て朝4時に起きるgotomiwaが可能なかぎりつまらないことを書くためのブログです

児童文学を書く、ということ

今月は(偶然にも)いろんな方面からその話題がやってきて、

「児童文学(童話)を書く、書いていく」

って、どういうことなんだろうなぁと改めて考えることが多かった。

 

以前からよく「ネタ」にしているけれど、とある講演会(セミナー? 某公募のキャンペーンでもある選考委員のトークショーみたいな)に出かけ、ロビーで話しかけられた女性……70歳前後に見える方と言葉を交わしたとき、

「わたし、娘に児童文学を書いてほしいんです」(だから聴きにきたんです)

と言われて、返す言葉に困ってしまった。

 

当時のわたしは、その公募の応募者のひとりに過ぎなくて、だから、「児童文学を書く人」も多くは知らなくて……。

そういうのが普通なのか、「稀」なことなのかも判断できなかった。

それでも、「娘さんが書いてくれるといいですね」的な返しはしなかったように思う。

そういえる如才なさというか、コミュニケーション能力を、当時から持ち合わせていなかったから(今も、当然ありません)。

 

児童文学は(いや、俳句でも油絵でも講談でも何でも)やりたい人が自発的にやるものだ……と思うから。

だから、その方の娘さんが、

「わたし、児童文学を書きたいの、その賞に応募したいの、でも(仕事で、出産で、その他で)行けないから、お母さん、話を聞いてきて! 内容を教えて!」

というなら、わかる……。

「娘が児童文学を書きたがっているんです」(でも、今日は来られなくて)なら。

 

「この人、何かを吐き出したい感じだな」というのが見えれば、そのエネルギーの「出口」(出す方向)のひとつとして、児童文学(童話)を「おすすめ」することはできる……と思う。

でも、「書かない人(書く気がない人)」に、「書きなよ~」とは言わないと思う。

「(その気もなさそうな)この人に書いてほしい」と考えることもないと思う。

(いま書いていて)書くのをやめていく人にも「じゃあね~」で済ませると思う。

「と思う」が連続してるけど(作品なら添削が入るところです)そう思ってる。

そのつもりでいる。

 

とはいえ、「おすすめ」する際のわたしの「目」が確かなわけでもないので、

「もっと書きなよ」

「これ、書き直そうよ」

「あの賞に間に合うから、出して」

というのが(ハイ、しょっちゅう言っています)が的外れだったり、過剰だったりする可能性は大いにあって……反省することもしばしば。

 

うざい、と思われるでしょうが、その気があったら(その気になったら)「乗って」ください。